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  • 2023.03.15

ワインで地方創生を。アメリカ人実業家が描く、国産ワインの未来 | 株式会社富士山ワイナリー

日本人の食生活は欧米化が進み、ワインの消費量も格段に増えた。バブル期の「ボージョレ・ヌーボー」大流行を経て、現在ではすっかり身近な存在となったワイン。何度かのブームがあり、日本国内のワイン消費数量は40年で約8倍となるなど、着実に伸長している。そして、今や日本産のワインこそが、世界から注目され大きく発展を遂げようとしているのだ。

ワイン文化黎明期から市場の拡大を見据え、業界の活性化に貢献したのがアメリカ人実業家のアーネスト・シンガー氏だ。父親の仕事のため12歳で来日して以来、日本に魅せられ60年以上東京に暮らす。格安航空券ビジネスで成功し、その後ワイン輸入をスタート、まだまだ日本にはまともな市場がない頃にクオリティの高いワインを輸入し普及させた功労者だ。

昨今、脚光を浴びるようになった日本産のワイン造りにも早くから取り組んできた。次に求められるニーズをいち早く察知し、異国の地でビジネスを成功させてきたシンガー氏。いかにしてビジネスチャンスを掴むことができたのか、そして今後の日本のワイン業界の発展にかける夢を語ってもらった。

【プロフィール】
アーネスト・シンガー
株式会社ミレジム 代表取締役。1945年、ワシントンD.C.生まれ。エール大学卒、東京大学教養学部卒、エール大学大学院修了。1953年米軍のコンピュータ技術者だった父の転勤により来日。一時米国のエール大学で勉学するため帰国するが、日本思想史を専攻していたマスターコースを中退して日本に再来日。ビジネスの道に入り、’71年トラベルセンター・オブ・ジャパンに入社。’73年インターマート・ジャパン代表、’74年アイ・ジェイ・トラベル代表、’84年インターマートシステムズ代表、’86年ヴィンテージインポーツ代表となり、旅行、広告、ワイン貿易を手がける。’89年米国のワイン評論家・ロバート・M.パーカーの名著「ボルドー」の邦訳出版にあたっては監修も務めた。’97年アセット・マネジメントを設立、’98年ミレジムに社名変更。世界中からワインを輸入する一方、2004年には自社で造った甲州ワインのEU輸出認定第1号となり、2008年1月にイギリスロンドンに輸出した。2007年、富士山ワイナリー設立。

日本に魅せられ起業。格安航空券で成功をつかむ

ロバート・パーカー氏(左)とシンガー氏

コンピュータ技術士だった父親の仕事で日本に移り住んだのは1958年。シンガー氏が12歳の時だった。暮らし始めてまもなく日本美術に傾倒した父親が、日本人と同じ生活を体験したいと、住んでいたアメリカの基地から横浜・山手に家を構えた。あらゆる日本の文化に触れ、浮世絵を蒐集、能などの伝統芸能を学び、最終的に、一家はアメリカにもどらず日本に永住した。そんな環境に育ち、シンガー氏自身もすっかり日本贔屓になった。
 
「高校卒業してまず、国際基督教大学で日本語を勉強しました。基地の学校に行っていたので、日本に住んでいても日本語を使う機会がなかったんですね。大学は、当時、唯一日本研究の学科があったアメリカのエール大学へ進学、その後、東京大学で日本史を学び、日本思想史、日本美術を専攻。エール大学の修士課程では世阿弥を研究しましたが、日本でビジネスをやりたいと考えて再来日することにしました。まず、起業に必要なスキルを学ばなければ、と、外国人が経営する旅行代理店に就職。2年後、独立しました」
 
当初は学者を目指しており、会社経営など思いもよらなかった。しかし、日本のことをもっとよく知るためには、ビジネスを起こすことが一番の近道と思い、1972年、旅行業をスタート。当時は航空券が高額で、日本人が気軽に海外に行ける時代ではなかった。それでも近い将来、海外旅行のマーケットが拡大することを見据え、まだ違法だった格安航空券の導入にも奮闘した。
 
「若い人に海外に行けるチャンスを与えたかった。それで運輸省など必要機関と戦って格安航空券を認めるよう働きかけたんです。最後は国の許可を得て、先駆けて格安航空券を活かしたビジネスで成功することができました」
 
シンガー氏は海外旅行や留学ブームに火をつけ、これまで何万もの人たちを海外に送ってきた。しかし次第に格安航空券を扱う競合が増え、市場はレッドオーシャンになっていった。

ライフスタイルの生まれた時代、ワインに着目


そこでシンガー氏は、まったくの異業種に方向転換する。それが、ワインの輸入だった。来日した1958年、日本は敗戦の苦しみから乗り越えようとしていた時代で、庶民の生活に余裕はなかった。しかし、日本が経済的に力をつけるにつけ、”ライフスタイル”という概念が出現。バブル期へと向かう頃には、ハイブランドを持ち、フランス料理を食べ、ワインを飲む。そんな生活を送る人たちが増えていった。シンガー氏は、その日本社会の変貌を目の当たりにしながら、次のビジネスチャンスを覗った。
 
「女性が少しずつ社会進出してきた。これから日本は女性を中心に消費していく社会になるだろうと考えたんですね。お酒といえば、男性の遊びだったのが、ワインは女性も楽しんでいる。ワインの時代がくるのではないかと考えました」
 
しかし、ワインビジネスには深い知識が必要だ。旅行業の傍ら独学でワインを学び、市場調査を続けた。ワインを楽しむためには勉強が必要であることを身を持って体験し、日本で初めてのワイン学校、「アカデミー・デュ・ヴァン」を創立した。現在では、有名ソムリエを多数輩出する日本随一の名門として知られている。同時にワイン評論の重鎮、ロバート・パーカーにアメリカまで会いに行き、彼のワイン評論本のアジアの権利を獲得。ボルドーワインの本を翻訳出版した。
 
「その頃、ワインブームの到来の予兆を感じていたんです。当時の日本のワイン市場はまだ極小でした。おいしくない国産ワインが主流で、ボルドーワインの市場はほとんどなかった。そんな中、アメリカの老舗インポーター会社の社長に掛け合って、ボルドーからクオリティの高いワインを輸入することができるようになったんです。そこで、ワインの輸入会社『ヴィンテージ』を興しました。昔も今も、世界で1番高いワインと言えば、ロマネコンティやペトリュス。アメリカの友人と組んで、そのロマネコンティを日本に輸入して、1本2万9000円、ペトリュスは1万9000円で販売しました。それまでは高いマージンが乗せられて販売されていたので、その価格は破格で業界が驚きました。さらに、その頃の輸入ワインは状態が悪く、船で日本に到着する頃には劣化している。それを、良い状態を保ったまま輸入することに成功したんです」

破格の値段、状態の良いワインで信頼を得る


「価格が安くてクオリティ高いワインを扱う輸入業者」と、ヴィンテージは口コミでたちまち業界に広まり、大手百貨店がこぞって販売に手を挙げた。当時は百貨店全盛時代。ブランド輸入品は百貨店で購入することが一般的だった。
 
「希少ワインを良い状態で輸入していた業者はなかったので、営業をしなくても”売ってください”と、大手百貨店から引き合いが絶えませんでした。当時は百貨店の力が強く、小規模の新参者との取引などしません。それが、西武をはじめ、三越、伊勢丹と広がり、ほとんどの百貨店で扱われるようになったんです」
 
一方、東京ではフランス料理界の革命が起こっていた。クイーンアリス、オテル・ドゥ・ミクニ、ひらまつなど、気鋭の人気シェフがレストランを次々とオープンし、フランス料理が脚光を浴びた。どの店もこぞってブランドワインを入手したがった。
 
「高級ボルドーワイン、黄金時代の始まりでした。ブランドワインを良い状態で扱っていたのは、私だけだったんです。その噂は国内だけにとどまらず、世界にも広がり信頼を得ることができました。おかげで、現在では世界の110のワインの総代理店になっています」
 
日本でのワイン人気はうなぎのぼりとなり、輸入業が順調に推移してきた2000年頃。シンガー氏のもとへ「日本で生産するワインが全然売れない。パーカーに助けてもらえないか」とある山梨のワイナリーから相談が寄せられた。
 
そこで、日本の地方とワインをつなげて活性化させることを思いついた。60年以上住んで、お世話になった日本に恩返しをしたいという気持ちも強かった。さっそく、フランスからボルドー大学醸造科の教授を呼んで、その地でワイン作りを試みる。だが、始めてまもなく、世界のワインと日本のワインとの考え方が大きく乖離していることに気づく。日本酒のメーカーは、米を農家から買って酒を作る。その手法をワインにも当てはめて、農家から叩き売りでブドウを買ってワインを作っていたのだ。
 
「日本酒と違い、ワインの場合はブドウ作りが重要なんです。まずブドウ栽培から学ばなくてはならない。日本では、ブドウ栽培からワインを作っているところはほぼなかったんです。そこで、自分でブドウ作りから始めようと決心しました」

日本産ワインで地方創生を目指す


日本産甲州ワインが世界で戦えるワインとなるための道を率先して切り開いたのが、シンガー氏率いる静岡県富士宮市の「富士山ワイナリー」だ。
 
そもそも日本のブドウはワイン用ではない。食べるためのブドウとワインのブドウでは作り方が違う。食べるブドウは棚栽培だが、ワイン用のブドウは垣根栽培で作る。甘さがポイントになる食用ブドウとは違いワインのブドウには酸が必要だが、日本の気候では暑すぎてワインに必要な酸がつかない。
 
「日本では標高600メートル以上でないと酸がつかないので、2006年より数カ所で甲州種の実験栽培をしてきましたが、2007年1万本の苗木を静岡県の朝霧高原(今のワイナリーがある地域)、山梨県の牧丘(2カ所)長野県の上田と塩尻に伝統的なヨーロッパスタイルの垣根栽培をはじめました。2009年には牧丘の畑はブドウの実をつけたのです。初めての自社畑のブドウは糖度も19.8度と高く、初めての垣根栽培の甲州ワインは888本できました。味については半信半疑だったので、作ったワインを評論家のパーカーに飲んでもらったら予想以上に良い評価をもらえたんです。成功したことで自信がつき、スパークリングワインを作る設備を投資、2013年スパークリング製造をスタートさせ、2019年にリリースしたのが”Shizen Sparkling Koshu”です。和食に合うように、ドライなタイプに造り上げました。現在では、多くの日本を代表する高級日本料理店で扱っていただいています」
 
こうして自分たちの手で生産販売する、「富士山ワイナリー」を起ち上げた。富士山の姿を一望できる美しいワイナリーだ。ワインのファンを増やしたいと、ワイナリーツアーも行なってきた。
 
「手間のかかるシャンパン方式で作っているため、リリースするまでに5年はかかるんです。今、販売しているものは、2016年、2017年に摘んだブドウから作ったもの。最初は2000本位しか作れませんでしたが、今は、増産ができるようになり、近い将来には年間2万本の出荷を目指しています」
 
今後は国や地方自治体の支援を受けて、一大ワインリゾートを展開する予定だ。ワイナリーに併設するカフェ、グランピングは、2023年8月にオープン予定。地域の活性化、雇用創出もめざしていく。さらなる事業拡大のためにシンガー氏は、どのような人材を望んでいるのか。
 
「グランピングは、最初は、1部屋の宿泊施設からスタートして、徐々に拡大していきたいと思っています。ワインのビジネスだけではなく、地方再生、農業発展、地元の雇用などで日本の役に立ちたい。現在は、レストランでデザートを担当するパティシエを募集中ですが、ほかのサービススタッフも採用予定です。経験はなくても、ワインやサービス業に興味を持つ、地方で仕事をしたい人なら大歓迎です。地元の若い人も集まってもらいたいですね」
 
取材・文:山下 美樹子

会社名 株式会社富士山ワイナリー
代表取締役 シンガーアーネスト
事業内容 葡萄の栽培、ワインの製造・販売・輸入・輸出
設立年月日 平成19年5月18日
所在地 〒418-0101 静岡県富士宮市根原宝山498

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